<爻辞>
「悔い亡ぶ。馬を喪う。逐うこと勿れ自ら復る。悪人を見る。咎なし」
<読み方>
くいほろぶ。うまをうしなう。おうことなかれみずから かえる。あくにんをみる。とがなし。
<爻辞の意味>
「悔いはなくなってしまう。馬が逃げたが、追いかけてはいけない。自然と戻ってくる。悪人が会いに来るなら、会うべきだ。そうすれば咎めを受けずに済む」
「火沢睽」は「そむき異なる」ことについて説かれた卦です。
そんな中この初爻は、馬にそむかれ逃げられてしまいます。
でも、それを追いかけて行って、無理やり連れ戻す必要はありません。
お腹が空くころ、自分で戻ってくるからです。
そして、たとえ悪人であっても受け入れるべきだとも言っています。
そうすれば、後悔するようなことにはならないのです。
「占った事柄」と「上記の説明」を、スライドガラスを2枚重ね合わせるようにして解釈してみて下さい。
また、下記の
「加藤大岳述 易学大講座」の要約も、ぜひ併せてお読みになり理解を深めましょう。
<説明の要点>
いきなり「悔い亡ぶ」と言っていますが、それは卦そのものが睽ですから、もともと背き苦しんでいる悔いがあってのことです。
それが滅びて亡くなっていくというのです。
それは何故かというのを具体的に表したのが、「逐うこと勿れ自ら復る」です。
なぜ「馬を失う」などという辞を持ってきたのかと言えば、この卦は応爻との間に睽の関係を見ているのですが、この初爻の応爻である四爻は互体の坎の主爻で、馬に見立てられています。
この馬は非常に心の奔って(はやって)いる馬であり、初爻とは陽剛同士で背き合うので、心せわしいこの馬が綱を切って逃げて行ったとしたわけです。
ここまでですと、「悔い」の状態だけで「悔いが亡ぶ」ところまで至りません。
それで、逃げた馬を追いかけたり連れ戻したりして「悔い亡ぶ」のかというと、そうではなく、放任しておけば先方から戻ってくると言うのです。
それが「逐うこと勿れ自ら復る」です。
なぜ放任しておかねばならないのかと言えば、初爻と四爻が不応なのは四爻のほうが不正なためです。ですから四爻が、その不正を改めれば、睽の悔いが解消されるのです。
そうするために、もし、こちらから力を加えたりすると、坎のせわしい馬のことですから益々猛って奔走してしまいます。
そうかといって、正しい初爻のほうから、その正しさを曲げて応和を求めることは良くない。
正しくないものが、そのまま長くいることが出来るわけはなく、やがて走りつかれ腹が空く頃に飼い主が恋しくなって、正しい位に立ち戻るのだから、それを待つ方が賢明だと言うわけです。
上記のような処置の難しさを「悪人を見て咎なし」と言っています。
悪人というのは、坎の主爻である四爻のことです。
強いて彼を追い求めないばかりでなく、自ら正に復って交を求めたなら、悪人さえも受け入れて相見えるような寛大さをもって、睽の悔いを亡ぼし、その咎を無からしめる……これが火沢睽の時にあって自ら正しい者が、睽の難を避ける道であるということです。
(加藤大岳述 易学大講座 現代語要訳)