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〈爻辞〉
「過ぎて渉る。頂きを滅す凶。咎なし」
〈読み方〉
すぎて わたる。いただきを めっす きょう。とがなし。
<爻辞の意味>
「自分の力を省みず、川を渡り出す。頭まで水に没して凶。しかし咎められることはない」
「沢風大過」とは「大いに過ぎる」ことについて説かれた卦(か)です。
そんな中この上爻は、自らの力が弱過ぎる者です。
しかしそれを省みず、世の中を救済しようと思ってむやみに進んでいき、ついには溺れて死んでしまうので凶だと言っています。
「咎められることはない」と付け加えられているのは、この者は身を殺して仁を貫こうとしたのですから、義においては咎められるべき点はないということです。
「占った事柄」と「上記の説明」を、スライドガラスを2枚重ね合わせるようにして解釈してみて下さい。
また、下記の
「加藤大岳述 易学大講座」の要約も、ぜひ併せてお読みになり理解を深めましょう。
<説明の要点>
大過は本末が弱く、そのために棟がたわむので、これを人事に当てれば、力弱くして重任を負い、そのために自らの身を傷めるようなものです。
この卦の担い、かつたわむものはと言うと、言うまでもなく初爻と上爻です。
初爻は力弱く、しかし事の渦中にはまだ深入りしていないので、恐れて事なきを得ましたが、上爻はすでに、のっぴきならぬ位置に立っているので大過としての災いを受けるのです。
物事と言うのは常識や個人の意志などによって全てが解決できるわけではありません。
自分がいつのまにか悪い役割を負わされてしまうようなこともあります。
そこには色々な不合理や不調和もあります。
他を犠牲にしたり、自分が犠牲になることもあります。
しかし同じ犠牲になるにしても、人には本能的な欲望があります。同じ死ぬなら、最も大きな意義のある、人のためになるような価値ある死…そんな望みを持つものです。
そして、そんな望みが叶えられ、主観的な満足感でも得られれば、人は喜んで死地へも赴きます。
そんな時は、自分の力不足や危険がどうのなどといった事は、別に問題でもなくなるのです。
自分の最善を尽くすまでです。
この上爻というのは、今、申し上げたような悲壮な境地にあって、己の任務を果たそうと努めている所です
。それを喩えてみれば、どうしても渡らなくてはならない川渡りです。
川を渡ることが最善であり、そこには絶大な意義があるとして、敢然と飛び込みます。
この大過は、大坎の象で大川と見て、渦中とみます。また爻位を人体の上に見れば、首に当たります。
棟たわむような非常重大な時に、往く攸あるに利ろしで、自分の責任を果たすために渾身の勇を振るって川を渡ろうとする……川は大き過ぎるし、この爻は泳ぎも知らない。
だからその身は頭頂までも没してしまって、ついに溺れるので身にとっては凶です。
しかし、その義においては、大過の大凶を救うがために、敢然と飛び込んで行ったのですから、その悲壮な気概は嘉とすべきだと言うのです。
人の、ある仕事を賞賛するとき「功労」と言いますが、功と労は原因結果です。
労を貫いて功に至らしめれば、確かに「功労」と言えますが、労して功のない時もあります。
功とは成果です。
この爻であれば、川を満足に渡り切ってしまえば、労して功ありですが、溺れて成果をあげないのですから功なき労です。
だから咎なしと言い、吉とは言っていません。
(加藤大岳述 易学大講座 現代語要訳)